海軍の碑  


場所

     神奈川県横須賀市汐入町一丁目一 ヴェルニー公園内

     (「ヴェルニー公園 園内マップ・施設のご案内」 に記載あり。)   


建立趣意

 浦賀に黒船が現れ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。
 その後、明治維新により明治政府が樹立された。明治政府は西欧諸国に比し一世紀の遅れを取り戻すべく我が国の近代化に着手した。特に海軍の整備が重要視され、日清及び日露両戦役を経て、我が国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとしての地位を占めるに至った。
 こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において横須賀はその最枢要基地としてかつての一寒村から我が国屈指の軍港都市としての発展を遂げることになった。
 しかしながらその海軍も昭和二十年の太平洋戦争終結と共に八十年に亘る歴史を閉じることになった。
 海軍終息から五十年という節目に当たる本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、また我が国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。
 なお本記念碑は全国の海軍関係者及び有志から寄せられた浄財によるものである。

                           平成七年十一月十七日
                           海軍の碑 建立委員会

墓地の沿革

 平成 6年 7月 2日 海軍の碑建立委員会発会
 平成 7年11月17日 建立(除幕式及び祝賀会開催)
 以降毎年(新型コロナ禍における休止を除く。)、海軍記念日である5月27日に現地において、横須賀水交会有志による記念行事を実施している。
 (各種器材の借用に関し、海上自衛隊横須賀地方総監部の協力を頂いている。)

記念行事概要

 清掃、供花、国旗・自衛艦旗の掲揚・降下、戦没者に対する黙とう等

その他

 海軍の碑に隣接して「軍艦山城之碑」、「國威顕彰碑」、「軍艦長門碑」、「軍艦沖島の碑」が設置されており、心ある人々が敬意を表している。
(1)軍艦山城之碑
   軍艦山城は最初の弩級軍艦として、平時の連合艦隊において優れた成績を挙げ、太平洋戦争時には各地に転戦した。
   昭和19年10月、捷第一号作戦の西村艦隊の旗艦として比島スリガオ海峡に突入し、数倍に及ぶ米艦隊と激戦、集中砲火の的となりながらも、沈没寸前まで前部砲塔からは間断のない砲撃が続けられたと伝わる。
   奮戦むなしく、最期は乗員と共に海底深く沈んでいった(碑の裏面から抜粋)。
  ・建立年月日:平成7年10月吉日
  ・建立者:軍艦・山城之碑建立委員会

(2)國威顕彰碑
   建立年月日等不明、帝国海軍重巡高雄型の艦橋を模して作成されたものと説明する向きもある。

(3)軍艦長門碑
   長門は大正6年8月28日に呉海軍工廠にて起工し、同8年11月9日に命名進水、同9年11月25日に竣工した。
   この翌年に横須賀で建造された同型艦陸奥と共に技術の粋を尽くした世界最大最強の戦艦と言われた。
   太平洋戦争では諸方に活躍し生き残る。
   戦後米国に接収され、ビキニの原子爆弾実験の標的としてその最期を遂げた(碑の裏面から抜粋)。
  ・建立年月日:昭和51年5月27日
  ・建立者:軍艦長門記念碑建設委員会

(4)軍艦沖島の碑
   沖島は昭和11年9月30日竣工した日本海軍最大級の敷設艦であった。
   機雷敷設艦として支那方面の沿岸封鎖作戦や南太平洋海域の幾多の海戦に参加したが、昭和17年5月11日、ソロモン群島ブガ島沖にて米潜水艦の攻撃を受けその最期を遂げた(碑の裏面から抜粋)。
  ・建立年月日:昭和58年12月5日
  ・建立者:軍艦沖島の碑建立委員会